「映画ゲド戦記」原作者が激怒ってホント?理由や原作との違いについて解説!

「映画ゲド戦記」原作者が激怒ってホント?理由や原作との違いについて解説!

2006年に公開されたスタジオジブリ映画「ゲド戦記

宮崎駿監督の息子さんである宮崎吾朗さん監督・脚本の作品ですが、実は原作者である、ル=グウィンさんを怒らせた?という噂があり、とても気になりました。

そこでこの記事では、映画ゲド戦記に原作者が激怒した理由についてや、原作との違いについて詳しく調査解説していきます!

何卒、最後までゆっくりとご覧ください。

目次

【映画ゲド戦記】原作者が激怒の理由とは?

映画ゲド戦記に激怒の理由とは?

スタジオジブリ公式サイトより

ゲド戦記の原作者である「ル=グウィン」はアメリカの小説家で、SFやファンタジー作品を多く執筆しています。

スタジオジブリによるゲド戦記の映画化には、この作者の了解がないと実現しなかったはず。

映画化は許可したものの、実際出来上がったものを見て何か納得できないことや、激怒するだけの問題があったのでしょうか?

ル=グウィン「私の本ではない!」

映画ゲド戦記は、スタジオジブリ制作。東宝配給で2006年7月29日に劇場公開。
宮崎吾朗監督・脚本の独自解釈によるストーリーとなっています。

原作者のル=グウィンは試写会後、「映画ゲド戦記」の監督・脚本を手掛けた宮崎吾朗に感想を問われたところ

私の本ではない。吾朗の映画だ。」と述べたそうです。

その後、この発言を吾朗が無断でブログに紹介したことや、日本人ファンからのメールなどを受けて、映画に対する感想を公式に発表します。

ル=グウィンはこの公式発表コメントの中で、「絵は美しいが、急ごしらえで、『となりのトトロ』のような繊細さや『千と千尋の神隠し』のような力強い豊かなディテールがない」「物語のつじつまが合わない」「登場人物の行動が伴わないため、生と死、世界の均衡といった原作のメッセージが説教くさく感じる」などとぶっちゃけています。

また、原作にはない、王子が父を殺すエピソードについても、「動機がなく、きまぐれ。人間の影の部分は魔法の剣で振り払えるようなものではない」と言い、原作と映画との違いに強い違和感を感じたと」コメントしています。

原作者が激怒の理由

・アニメーションの描写力が気に入らなかった。

・原作メッセエージが説教みたいに言葉だけ伝わると、不満だった。

・原作にはないシーンをストーリーに入れたことの不満。

という主に3つポイントが激怒の理由となります。

原作を忠実に再現してほしかったのでしょうか。

はたまた、宮崎吾朗監督では不満だったのでしょうか?

宮崎駿監督に撮ってほしかった

1980年代初めごろ、宮崎駿は、愛読書でもあった原作のゲド戦記のアニメ化を打診しました。

しかし、当時のル=グウィンは宮崎作品はもとより、日本のアニメなど見たこともなかったようで、すぐにこの話を断ったそうです。

そして数年後、『となりのトトロ』を見たル=グウィンはこれは本物だと思ったんでしょうね。ゲド戦記を映像化するなら宮崎駿に任せたいと思うようになったようです。

こうして第3巻と第4巻をベースとして『映画ゲド戦記』が制作されました。

だがここで問題が一つあり、映画ゲド戦記の監督は宮崎駿本人ではなく息子の吾朗であることを知ったル=グウィンはそれを残念に思ったとコメントしています。

映像の美しさは評価しているが、全体に説教くさい点とプロット進行については問題があると明かしました。

※なお宮崎駿も本作には批判的だったそうです。

吾郎監督自身もちょっと残念な結果になってしまいましたね。

原作のゲド戦記について

ちなみに『映画ゲド戦記』は主に原作ゲド戦記第3巻の「さいはての島へ」を原作としています。

 

シュナの旅について

また、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』も原案とされています。

【映画ゲド戦記】原作者ル=グウィンについて

アーシュラ・クローバー・ル=グウィン(1929年10月21日 – 2018年1月22日)は、アメリカの小説家でSF作家、ファンタジー作家です。「ル・グィン」、「ル=グイン」とも表記されます。

SF作家としては、両性具有の異星人と地球人との接触を描いた『闇の左手』で広く認知されるようになり、他に代表作にユートピアを描いた『所有せざる人々』 などがあり、SF界の女王と称されました。

ファンタジーの代表作は『ゲド戦記』のシリーズですが、他に『空飛び猫(英語版)』といった絵本作品もあります。

 

【映画ゲド戦記】原作との違いについて

【映画ゲド戦記】原作との違いについて

スタジオジブリ公式サイトより

映画ゲド戦記は原作者ル=グウィン(以下「原作者」)による「ゲド戦記」の一連の作品を原作としており、世界観や設定、登場人物名や用語などでいくつかの共通点を持っています。

その一方、原案『シュナの旅』の影響が強いため、原作とは異なる点も多くなっています。

影の意味

まず原作3巻にアレンの影は出てきません
鈴木敏夫プロデューサーが『ゲド戦記』のテーマに触れる入り口として導入を提案したそうです。原作1巻の影の物語をハイタカからアレンに移植し、影の役割も変わっています。
制作者によると本作では影の意味は原作とは対照的に設定されているようです。
原作では若きハイタカ(ゲド)の影が「心の闇(憎しみや傲慢)」として描かれているが、映画ではアレンの影が「心の光の存在」であるとして描かれています。
原作における影は、光を受けた時に認識することができる、様々な受入れがたい心の傷(良心の呵責など)や、結果的に自分を害することに繋がる弱い心(憎しみや傲慢など)を表しています。

原作では「影」は、様々なゲドの経験から蓄積された無自覚な否定したい心の部分が召喚魔法により具現化し実体を脅かす存在となり、実体であるゲドにつきまといゲドは次第に追いつめられていきます。

宮崎吾朗監督のインタビューによると、映画では悪役クモの仕業によって主人公の「心の光の部分」が切り離されて、光が肉体を追う影となってしまい、影は心の闇に支配されたアレンの実体と一つに戻ろうとして追いかけていたと説明されています。

※ちなみに原作者は映画に対するコメントの中でアレンが分割した理由が不明確であることについて批判をしているそうです。

アレンとゲドの関係

映画ではアレンが心の闇に支配されて国王(父)を殺害し国を出奔、そして「ハイタカ」に出会って旅に同行するという展開になっていますが、原作ではアレンは、エンラッドや諸国の異常を知らせるよう父に命じられて、ロークの大賢人たるゲドに会いに行き、そして2人で旅に出る流れになっています。

アレンの父親殺し

アレンが国王である父親を殺すという設定は原作にはなく、映画オリジナルです。
テルーが親から虐待されたという原作に準拠した設定ともあいまって、田を耕さずハジアを売ったり、人を売り買いする人が儲けたりなどの均衡の崩れた世界を象徴しています。
劇中、アレンが父を刺したのと同じ構図で、アレンがハイタカに斬りかかるシーンもあります。2度目のハイタカに斬りかかる方は、劇中はっきりとクモに操られていることが示されます。
アレンの父殺しという設定の発案者はプロデューサーの鈴木で、主人公の旅立ちの理由を模索していた吾朗は、「この子は父を殺しちゃうんだよ」という鈴木の一言に初め驚いたそうですが、アレンのキャラクターに合うと思い取り入れたそうです。

脚本家の丹羽圭子のインタビューでは、当初アレンはおかしくなった父親に殺されそうになり国を飛び出す、というシノプシスがあったが、鈴木が「今の時代を考えると、息子が父を刺すほうがリアルだ」と発案し、吾朗が取り入れたと言う。

アレンの父殺しの理由は劇中はっきりとは説明されませんでしたが、吾朗はインタビューで、「アレンは父を憎んでいたわけではなく、たぶん尊敬しており好きでもあったが、自分が陥っていた閉塞感やがんじがらめな気分を抑えきれなくなり暴走し、彼を取り巻く世界、社会の『象徴』である父親に抑えきれなくなった感情の矛先が向かった」という講釈をしています。

よく父である宮崎駿と宮崎吾朗の関係になぞらえられた推察がされるが、吾朗自身は「父さえいなければ、生きられると思った。」というキャッチコピーに対しても、自分のことではない、と否定しています。

テルーの描写

映画ではテルーは火傷の跡こそ描かれているものの、基本的にジブリ作品におけるヒロインのデザインを踏襲したものとなっています。
『シュナの旅』のヒロイン、テアにも似ていました。ジブリの定石である少年と少女の物語にするため、原作では5 – 6歳(4巻)なのをアレンと見た目が同年代の少女に変更。しています。

火傷の位置は原作では右半身だが、映画では左の目から頬にかけて痣状です。
原作では「顔の半分がケロイド化して目がつぶれている」とか「手が溶けて鉤爪のようになっている」など醜悪さを表現する描写が多いです。また原作では炎によって喉も潰れており、「テルーの唄」のような歌を歌うこともできない状態です。

物語の世界

映画ではホート・タウンとその周辺で物語が進められるが、原作においてはゲドとアレンは辺境の島々から死後の世界まで、アースシーの世界を縦横に冒険しています。
原作では肌の黒い人間がマジョリティ、白い人間はカルガド圏出身のマイノリティと表現されています。しかし、映画ではハイタカの肌がやや黒い以外は誰の肌も褐色じゃないですよね。
原作者は物語で肌の色が濃いのは邪悪さと結びつけられる因習に批判的なため、この肌の表現にこだわっていたそうです。

物語の解決

原作では、誰か悪者を暴力で倒すという単純まストーリーではないです。

それに対して映画では、世界の均衡が崩れつつあるのも、竜が食い合うのも悪役クモが生死両方を分かつ扉を開けた影響とされ、その悪役クモを倒すことによって、共食いをしていた竜がラストシーンで仲睦まじく天空高く飛ぶようになる姿を描き、物語は解決を見せ、終わっています。

アレンはすべてのいきさつを知る大賢人ゲドと共に国へ帰ります。

本作品の映画の公式パンフレットに『ハイタカはクモという魔法使いが生死両方を分かつ扉を開け、それによって世界の均衡が崩れつつあることを探り出す』と記載されているとおり、世界の均衡を崩し、人々の頭をおかしくしているラスボス的なキャラが、クモです。

しかし、劇中ではクモは敗れたのみで、世界の崩れた均衡の全てが解決したかどうかは明確に描写されていません。
また、クモの台詞の中に「均衡はすでに我ら人間の手によって破壊されつつある」とあるため、クモだけが災いの原因とは言えない可能性が大きいですよね。

劇中、世界の均衡を唯一崩せる存在は「人間」であると暗に示されており、世界の均衡を崩しているのは、人間の欲深さが原因とされています。

【映画ゲド戦記】まとめ

ここまでの内容で、ゲド戦記原作者が激怒した理由についてや、原作との違いについて詳しく解説してきました。

以下まとめです。

 

原作者が激怒の理由

・アニメーションの描写力が気に入らなかった。

・原作メッセージが説教みたいに言葉だけ伝わると、不満だった。

・原作にはないシーンをストーリーに入れたことの不満。

・一番は宮崎駿監督に撮ってほしかったため

 

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ゲド戦記の原作もチェック!

 

それでは、最後までご覧いただき誠にありがとうございます。

 

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